

子どものころ
ビアトリクス・ポターは1866年7月28日、ロンドンのケンジントンのボルトンガーデンズ2番地に生まれました。ビクトリア朝時で
の典型的な家庭といえるポター家は、幾人かの召使つきの大きな屋敷に住んでいました。ビアトリクスは乳母に育てられたため、ほとんどの時間を一人きりで過ごし、両親に会うのは就寝前と何か特別なことがあるときだけでした。
ビアトリクスが6歳のとき、弟のバートラムが生まれました。姉弟はバートラムが学校にあがる年齢になるまで、家庭教師によって教育されました。ビアトリクスは学校へは行かず、家庭で数人の女家庭教師について読み書きを勉強し、音楽や美術を習いました。
ビアトリクス・ポターの休暇
ビアトリクスは毎年恒例の夏の休暇でスコットランドと湖水地方を訪れるうちに、自然への愛情にめざめました。彼女はバートラムとともに森や野原を探検し、野生の動物を捕まえてはペットとして飼い、観察したことはすべてスケッチして着色しました。
1882年に湖水地方のウィンダミア近くに長期滞在した際、ポター家は教区の牧師である大聖堂参事会員ローンズリー・ハードウィックと親しくなりました。ローンズリー氏は当時から、産業開発と観光化が湖水地方の美しい自然を脅かしていることを懸念していました。ローンズリー氏はビアトリクスに田園地方の景観保存の大切さを説き、このため、ビアトリクスはその後の人生においてもそれを深く心にとめることとなります。
ビアトリクス・ポターのペットたち
ポター夫妻は過保護であったため、ふたりの子どもが他の子どもたちと交流することを認めませんでした。しかし、ビアトリクスとバートラムはお互いのよい友人で、一緒にペットの動物を集めては、「お勉強部屋」で飼っていました。ふたりはブロンズカエル1匹、トカゲ2匹、イモリ数匹、ヤマガカシ、カメ、ウサギをそれぞれ1匹ずつ飼っていたこともあります。ふたりは熱心に観察しました。ビアトリクスはこういったペットをテーマにたくさんのスケッチを残しました。有名なキャラクターのほとんど全てが、実際に飼っていたペットを題材にしたものです。
ベンジャミン・バウンサー ベンジャミン・バウンサーはビアトリクスが最初に飼ったウサギです。ロンドンのペット屋でこっそり購入して、紙袋に忍ばせて子ども部屋に持ち込まれました。「バウンス」はビアトリクスが描いた多くのウサギたちのモデルとなりました。ベンジャミンの写真の裏にビアトリクスはこう書き残しています。「“ベンジャミン・バニー(ベンジャミン・バウンサー)”の張本人」。ベンジャミンはバターを塗ったトーストが大好物で、お茶の合図のベルを聞くと客間に飛び込んできたそうです。
ピーター・パイパー ピーター・パイパーは黒の雄ウサギ(ベルギー種)で、まだほんの幼いうちに買われて来ました。ビアトリクスはある子どもに宛てた手紙の中でこう書いています。「ピーターはまるでねこのように暖炉のそばのじゅうたんの上で寝たものでした。彼はとても芸がうまく、輪のなかをくぐったり、ベルを鳴らしたり、タンバリンをたたいたりしました。ある時など、麦わら帽子の上でタンバリンをたたこうとしていたのですよ。
ティギーおばさん ビアトリクスはウィニフレッド・ウォーンに宛てた絵手紙のなかで、ペットのハリネズミについてこう書いています。「ティギーおばさんはとても旅慣れています。何回旅行に出ているか数え切れないぐらいです。(中略)ティギーおばさんを是非一度お茶に誘ってくださいな。お人形遊びのティーカップでならきっといくらでもミルクを飲みますから!」
スポット スパニエル犬のスポットは、ポター家で可愛がられていた犬です。スポットは馬車に乗るのが大好きで、家族の誰かが馬車に乗って外出する時には、必ず一緒に飛び乗ってしまい、誰にも止めることはできませんでした。ビアトリクスは、犬は描き難いと認めていましたが、晩年は途切れることなく牧羊犬を飼いながらも、「犬に対しては、ある程度は敬意を抱くけれど、決して品性のよい動物ではないと思う」と書いています。
ザリファ 子どものころ、ビアトリクスは「眠たがりやの小さな生き物」であるヤマネがお気に入りでした。ザリファが死んだとき、ビアトリクスは「可哀想に、私と同じくらい生きるかもしれないと思ったのに。きっと高齢だったのでしょう。それでも、これほど多くの友を持ったヤマネはいたかしら。(中略)ザリファは私が知っている動物のなかでも、多くの意味でもっとも愛らしい生き物だったと思う」と書き残しています。その後「妖精のキャラバン」で、ビアトリクスは「ザリファ」という名前の、小さな眠たがりやのヤマネを登場させています。
ピグウィッグ ピグウィッグはビアトリクスが血統養豚農家から購入した黒いバークシャー種の仔豚でした。ビアトリクスはピグウィッグもヒルトップ農場の他の豚たちと一緒に飼いたかったのですが、農場管理者はピグウィッグが他の仔豚に近寄ることを嫌がりました。そこでビアトリクスはこの仔豚をバスケットに入れて自分のベッドの隣に置き、夜も昼も哺乳瓶でミルクを与えて世話をしました。やがてピグウィッグはビアトリクスの熱愛するペットとなり、家の中でも外でも、彼女の後をついて歩くようになりました。
秘密の日記
15歳のとき、ビアトリクスは自分でつくった暗号で日記をつけ始めました。後年、ビアトリクスは日記を読み返そうとしましたが、本人にすら理解できるものではありませんでした。この暗号が解読されたのは死後15年も経ってからでした。他人に対しては恥ずかしがりやで内気な性格と見られていたビアトリクスも、日記では自分の気持ちを自由に表現できたのです。日記では、当時の芸術家や作家、そして政治家に対して鋭い批評を繰り広げています。
創作の時代
ピーターラビットのおはなし
『あるところに、4ひきの 小さなうさぎがいました。なまえは、フロプシーに モプシーに カトンテールに ピーターといいました。』これは、いつの時代でも子どもたちが大好きな絵本「ピーターラビットのおはなしTM」の冒頭部分です。しかし、ビアトリクス・ポターのこの有名なキャラクターが、どのようないきさつで絵本になって出版されるようになったかについては、また別のおはなしがあるのです。
1893年9月4日、ビアトリクスは、ノエル・ムーア君に、ピーターといういたずらウサギについての絵手紙を書きました。ノエル君は、かつての家庭教師の5歳になる息子で、このとき病気療養中でした。ビアトリクスはこう書きはじめます。「親愛なるノエル君へ。なにを書いたらよいのかわからないので、4ひきの小ウサギのおはなしを書くことにします」。 数年後、ビアトリクスはこの話を絵本として出版しようと考えました。彼女はこれをノートに書きなおし、出版社6社に送りましたが、すべて断られました。ビアトリクスは仕方なくこれを自費出版したところ、ようやくフレデリック・ウォーン社が出版に同意しました。こうして1902年、「ピーターラビットのおはなし」は1シリング(現在の貨幣価値で10円位)で販売され、これまで出版された絵本のなかでも、もっとも有名な絵本の一つになりました。
ビアトリクスは自分の作品には自信がありましたが、それでも突然の人気には驚かされました。それは一晩眠って目を覚ましたら突然有名になってしまったようなものでした。こんなに人気が出たのは、もともと実在する子どものために書いたお話だからだとビアトリクスは考えました。 ピーターラビットはビアトリクス・ポターのキャラクターの中でもいつも一番の人気者です。ピーターラビットは、「ベンジャミンバニーのおはなし」、「フロプシーのこどもたち」、そして「キツネどんのおはなし」にも登場します。
ところで、ビアトリクス・ポターは実際に「ピーター」という名前のうさぎを飼っていたことはご存知でしたか?
ロマンス
1903年、ビアトリクスはフレデリック・ウォーン社と共同で「りすのナトキンのおはなし」と「グロースターの仕たて屋」の2冊の絵本を出版します。ポターは出版の打ち合わせのため、ロンドンのコベントガーデンにある出版社を定期的に訪れるようになりました。編集を担当したのは、主に故フレデリック・ウォーンの末息子であるノーマン・ウォーンでした。 ノーマンはウォーン家でただひとりの独身者で、甥や姪にとってはやさしい叔父でもありました。ノーマンとビアトリクスが親しくなると、ビアトリクスは客としてウォーン家に温かく迎えられるようになりました。ノーマンが結婚申し入れの手紙をビアトリクスに送ると、ビアトリクスはとても喜び、両親の反対にもかかわらず、プロポーズを承諾しました。 しかし、ノーマンは白血症のために婚約後数週間で急逝し、この結婚は夢と消えました。ビアトリクスは茫然自失に陥ります。ノーマンの姉妹ミリーに宛てた手紙で、ビアトリクスは次のように書いています。「ノーマンは長生きはできなかったけれども、立派で、幸せな一生でした。来年には私も心機一転、気持ちを切り替えるよう努めなければなりませんね」
ヒルトップ農場
ビアトリクスは小さな頃から湖水地方を愛してきました。そしてこの頃では、「ピーターラビット」シリーズの出版で得た収入で、ソーリー村にあるヒルトップ農場が買い取れるほどになっていました。農場主のジョン・キャノンもそのまま雇い入れ、ハードウィック種の羊も群れごと買い取りました。しかし、ビアトリクスがこの大好きな新居に住むことはできませんでした。ロンドンに住む両親の世話をしなければならなかったためです。しかし、これはビアトリクスの独立の第一歩であり、できる限りヒルトップを訪れました。 ビアトリクスの後年の作品の多くは、ヒルトップ農場が舞台となっています。農場を荒らすクマネズミは「ひげのサムエルのおはなし」のヒントとなり、「こねこのトム」とその姉妹たちは、ヒルトップの庭の奥にある石垣を昇ります。「ジンジャーとピクルズや」の店
は、ソーリー村が舞台となっています。
湖水地方
ビアトリクス・ポターの結婚
ヒルトップ農場の経営を通して、ビアトリクスは農業について、たくさんのことを学びました。そこで、「ピーターラビット」シリーズの印税を投じ、湖水地方にさらに土地を購入することにしました。そこで地元の事務弁護士ウィリアム・ヒーリスを顧問として雇い、土地の売買についての助言を受けました。ウィリアムはビアトリクスの湖水地方への愛着に共感していましたし、二人の間には多くの共通点がありました。1912年、ウィリアム・ヒーリスはビアトリクスに結婚を申し込み、受け入れられました。 ビアトリクスの両親は今度もこの結婚話に不満でしたが、ビアトリクスの決心は固く、ついに両親も結婚を許します。ウィリアムとビアトリクスは1913年10月、ロンドンで結婚しました。この時ビアトリクスは47歳になっていました。ふたりはソーリー村のカースルコテージに新居を構えました。
ナショナルトラスト
ビアトリクスが初めて湖水地方を訪れたのは1882年夏の家族休暇のことで、そのとき地元の教区牧師、ローンズリー師と親しくなりました。ローンズリーは当時から、産業開発と観光化が湖水地方の美しい自然を脅かしていることを懸念していました。ローンズリーはビアトリクスに、田園地方の景観保存の大切さを説きました。 1895年、ローンズリーは「ナショナルトラスト」の設立に協力しました。「ナショナルトラスト」とは、美しい自然景観や建築物、また歴史的な名所旧跡を保護し、保存することを目的とする団体です。ビアトリクスはナショナルトラストの理念を心に刻みました。「The Peter Rabbit Books TM(ピーターラビットの絵本シリーズ)」による収入で、ビアトリクスはナショナルトラストのために土地を購入し、管理することができたのです。また農場経営者としては、伝統的な農場経営方法を守り、なにごとにも古いやり方が忘れられぬように努めたのです。 1943年にビアトリクス・ポターが亡くなると、15の農場、いくつかのコテージやターンハウズ湖など、4000エーカーもの土地がナショナルトラストに寄贈されました。自然の遺産を後世に残していく手助けをすること、それがビアトリクスがこよなく愛した土地への恩返しだったのです。
農場経営者そして牧羊家として
ビアトリクス・ポターは、いつも「生きた」動物に情熱的な興味を抱いていました。ウィリアム・ヒーリスと結婚してからは、湖水地方に腰を落ち着け、農場経営に情熱を傾けるようになりました。 ビアトリクスは湖水地方のいくつかの農場経営に積極的に携わりました。木靴をはいてショールを肩に掛け、古いツイードの上着に身を包んで干草を作り、詰まった排水溝をきれいにするために泥の中を歩き、迷子になった羊を探して丘を歩き回りました。ビアトリクスは、農場の動物たちと一緒にいるときがいちばん幸せだと語っています。 ビアトリクスは羊飼いのトム・ストーリーと協力して、ハードウィック種の羊を飼育しました。ハードウィック種は湖水地方原産の珍しい品種で、絶滅の危機に瀕していました。彼女は所有する農場すべてでこの品種の保存に励み、地元の品評会でも各種の受賞をしました。1930年には全英ハードウィック種牧羊協会初の女性会長に選出されました。これは偉業であると同時に、地元の農場経営者たちから深く尊敬されたことの証しともなりました。
ビアトリクス・ポターの遺産
「ピーターラビットのおはなしTM」が出版されたとき、ビアトリクス・ポターはこの絵本がこれほど読まれるようになるとは想像できませんでした。こんにち、「ピーターラビットのおはなし」とその他の「The Peter Rabbit Books TM(ピーターラビットの絵本シリーズ)」は世界中の子どもと大人たちに愛されています。 絵本出版以外に、ビアトリクスは商品販売にも興味を抱いていました。彼女はピーターラビットの人形、ジグソーパズル、ピーターラビットの壁紙、そして自身が考案したピーターラビットのゲームの特許を取得しています。ビアトリクスが「余興」と呼んだこれらの商品は現在でも大変な人気で、豊富な種類の商品が揃っています。 ヒルトップ農場はビアトリクスの死後、ナショナルトラストに遺贈されました。1946年には一般公開が始まり、毎年何千人もの人々が訪れています ナショナルトラストは現在でも、ポターの遺言により寄付された4000エーカーの土地を維持し続けております。ナショナルトラストは地元の農場主と協力して、湖水地方独特の空積みの石垣と遊歩道を管理し、ビアトリクスが愛した湖水地方の景観の保護に努めています。
ビアトリクス・ポターの作品
ビアトリクス・ポターの作品
ビアトリクス・ポターはごく幼いころから、両親のルパートとへレンの勧めで絵を描き始めました。子どものころ描いていたのは、ほとんどが植物と動物のスケッチでした。 一家は画家のミレーと親交がありましたので、ビアトリクスは彼の影響で絵画の世界に入り、王立美術院へ通って、彼女らしさを決定づける絵画技術を養いました。ポターはゲーンズボロー、レイノルズ、ラファエロ、ティツィアーノなどの作品が好きで、日記には展覧会を訪れた時のことが詳しく記されています。 1890年代に入ると、ビアトリクスは博物学、特にキノコの研究に熱中しはじめます。それと同時に小冊子やカード類、アルバムなどにさし絵を描くことでささやかな収入も得るようになりました。ビアトリクスは生涯を通して、できるだけ正確に自然を写実することを主義としていました。 ビアトリクス・ポターといえば、すぐに有名な動物たちのキャラクターのさし絵を思い起こしますが、あとに残されたスケッチや絵画を見ると、動物から風景、花や化石まで、実にバラエティに富んだものが描かれていることに驚かされます。
博物学
ビアトリクス・ポターのスケッチブックや彼女が使っていた教科書の多くは今でも見ることができます。よく描かれていたのは、ビアトリクスや弟のバートラムが飼っていたペットや植物でした。
動物たちのデッサン
ビアトリクス・ポターはウサギ、ハリネズミ、ネズミ、トカゲ、イモリ、カエル、コウモリ、ヒキガエルなど、さまざまな動物を飼っていました。いろいろなペットの姿やその行動を観察していたおかげで、ビアトリクスは「ピーターラビット」シリーズで、キャラクターを細かなところまで創作することができたのでした。
植物のデッサン
ビアトリクス・ポターの初期の作品には花の絵があります。ほとんどは花束や、色とりどりの花瓶に愛らしくアレンジされた花の絵です。 「ピーターラビット」シリーズの絵本でも、植物や花がしばしば重要な役割を果たしています。「あひるのジマイマのおはなし」のジキタリス(キツネノテブクロ)、「ベンジャミンバニーのおはなし」でピーターラビットが盗んでたいへんなことになったタマネギ、かえるのジェレミー・フィッシャーどんが釣りにいくためにボートとして使ったスイレンの葉などが上げられます。
キノコのスケッチ
ビアトリクス・ポターがはじめて描いたキノコのスケッチは1888年のもので、湖水地方のリングホルムでの休暇中に描かれました。その後10年間、ビアトリクスはキノコの研究に精を出し、1897年4月にはリンネ学会に菌糸の発生に関する科学論文を提出しました。当時は彼女の観察結果はかえりみられませんでした。今日では彼女の観察結果に間違いはなかったとみなしています。 1892年に知り合った、パースシャーの自然研究家であるチャールズ・マッキントッシュの助けを借りて、ビアトリクスはあらゆる種類のキノコの水彩画を何百枚も描きました。マッキントッシュ氏は彼女の作品が植物学的に正確であることを賞賛し、1967年にはそのうちの60枚が W P K フィンドリー博士の著作「あぜ道と森林のキノコ」のさし絵として使われました。作品コレクションはアンブルサイドのアーミット図書館とパース博物館に保管されています。
昆虫のデッサン
きのどくな「のねずみチュウチュウおくさん」の家の中には、いろいろな虫たちが勝手に入ってきます。『まことにきれいずきな やかましや』である、のねずみチュウチュウおくさんは、ごみむし、てんとうむし、くも、ちょうを追いはらい、ジャクソンさんにはちの巣を取りのぞくよう頼みます。
風景画
ビアトリクス・ポターのスケッチブックの多くは、ロンドンのビクトリア&アルバート美術館とナショナルトラストに収められており、大きな意味をもつ場所の風景画もたくさん残されています。なかには、「ピーターラビット」シリーズのさし絵の背景に使われたものもあります。
絵手紙
さて、ビアトリクス・ポターは子ども好きだったのでしょうか?子どもたちに宛てた手紙や絵がたくさんあるのを見ると、たいへん子ども好きだったといえるでしょう。 ビアトリクス・ポターの小さな絵本のいくつかは、ペンとインクで描いたさし絵を入れて子どもに送った手紙が元になっています。ビアトリクスはまた、絵本に登場する動物たちがお互いにやりとりした手紙を、きれいなミニチュアの手紙としてシリーズにしています。
ビアトリクス・ポターの作品
絵本を出版するずっと以前から、ビアトリクス・ポターは子どものころお気に入りだったお話のためのさし絵も描いていました。「シンデレラ」や、「リーマスじいや」の「ウサギどん」シリーズがそれです。ポターはこういったさし絵を、趣味として描いていたようですが、ときどき友人や親戚に贈ることもありました。 1890年代初頭に、ビアトリクス・ポターの作品が初めて出版されました。ヒルダスハイマー&フォークナー社が出版した小冊子、「しあわせなふたり」のために描いたグリーティングカードのデザインとさし絵です。こういった初期のデッサンは、ポターが想像画にも優れていたことを示しています。
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